
2022年11月開催されたサッカーワールドカップのカタール大会で
初戦でドイツをを破る快挙を上げて話題になっています!
本大会において日本代表の監督を務めるのは森保一監督ですが、
今回は、そんな森保一監督の現役時代の経歴や
若い頃はレッドカードを何度もについてまとめてみたいと思います。
日本代表を指揮する森保一監督!
2022年ワールド・カップ、カタール大会で
日本代表を指揮している監督の森保一さんですが、
前回2018年のワールド・カップ後の西野朗監督の後任として
2018年7月に監督就任を発表されました。
ちなみに、森保一監督は当時オリンピック日本代表の監督にも就任していて、
オリンピックとワールド・カップの監督を兼任したのは、
フィリップ・トルシエ氏以来日本では実は史上二人目となります。
日本は、オリンピックにおいてもワールド・カップにおいても、その全権を森保一氏に託す形を取りました。
今回のカタール大会においては、これまで以上の成績が、
大いに期待できるのではないでしょうか!
森保ジャパン世界へ衝撃!
クラマーさんにサッカーを教わった日本がドイツを破るとは壮大なドラマだなぁ・・・ #FIFAWorldcup #GER #JPN pic.twitter.com/OfOxVgapNL
— 福路太一(本隊) (@hukujitaichi_) November 23, 2022
日本がW杯初の逆転勝ちで、世界に衝撃を与えた。
試合開始からボールを支配される一方的な展開。
押し返すことが出来ないまま、前半33分にPKで先制点を許した。
W杯では先に失点した試合では、過去9戦7敗2引き分けで「勝率0%」。
ましてや相手は優勝候補のドイツ。引用元:https://news.yahoo.co.jp/articles/c7d052b8b3b476f23ca793d85100638cb03b080f
森保監督は4年半近くずっと選手を見てきて、一貫して自分の考えと現実的な戦い方を選択し、
選手もそれを実行出来る人を呼んできたことが、報われたようですね。
選手も監督も素晴らしくて閉塞感が半端ない昨今の日本だけれど、
こういう喜びが人から人に伝わって、少しでも世の中ぎ明るくなればいいですね。
森保一監督の現役時代の経歴
名前 森保一(もりやすはじめ)
愛称 ポイチ
生年月日 1968年8月23日(54歳)
出身地 長崎県長崎市
身長 174cm
体重 68kg
現役時代 ポジション MF / DF
学歴
1979-1980 長崎市立深堀小学校
1981-1983 長崎市立深堀中学校
1984-1986 長崎日本大学高等学校
愛称の「ポイチ」は、高校時代に試合に出ていたころ、公式記録などで「森 保一」とたびたび勘違いされ、
それを見た同級生がポイチと呼び出したことからの愛称のようですね。
静岡県掛川市生まれの森保一監督は、引っ越しの関係で長崎に移住し、
長崎日本大学高等学校でサッカーをプレーしました。
社会人からプロへ
高校卒業後は東洋工業(現:マツダ)のサッカー部である東洋工業サッカー部に入部しましたが、
入部当初、森保一氏は選手としてあまり良い評価を得ていなかったようです。
しかし、マツダに指揮官として、元日本代表監督であるハンス・オフト氏が就任することになると
オフト氏は森保監督に目をつけ、森保一氏を選手として引き上げました。
その後、オフト氏はチームの降格とともに退団しますが、
後任のビル・フォルケス氏によって森保監督は育てられ、1991年にプロ契約を果たし
同年クラブは日本サッカーリーグの1部に昇格します。
Jリーグ時代に代表選出!
1992年にマツダはサンフレッチェ広島となり、4月、オフト氏が日本代表監督に就任すると、
森保監督は日本代表に招集されます。
当時のスター選手であるラモス瑠偉氏や三浦知良氏はと対象的に、
ほぼ無名の選手として大抜擢されました。
しかしピッチに立つと評価され、海外の監督から「日本にはよいボランチがいる」ということから、
「森保」と「ボランチ」のワードに注目が集まりました。
守備的ボランチとしてチームを支える
同時はラモス瑠偉氏の後方をケアする守備的MFとして活躍しました。
1993年のワールドカップアメリカ大会アジア予選で、あの「ドーハの悲劇」を経験しています。
1993年から開幕したJリーグでは中心選手としてチームを支え、
1994年サントリーシリーズではステージ優勝に貢献しましたが、
1995年7月、右足首関節脱臼骨折して思うようなプレーができませんでした。
代表では山口素弘氏がボランチに定着したため、その座を譲る形となりました。
1997年はサンフレッチェ広島が経営不振に陥り、その影響は森保監督にも降りかかります。
1999年に古巣に戻るも新体制に居場所はなくなります。
2002年、森保監督は現役を続ける意思を貫きベガルタ仙台へ移籍。
ベガルタでは主力として活躍しましたが、クラブはJ2降格し森保監督自身にも戦力外通知が下り、
2004年に現役を引退することとなりました。
森保一監督にとってはいい潮時だったのではないでしょうか。
森保一の現役時代の若い頃はレッドカード何度も?
森保一監督は、真面目で誠実で選手思いの監督というそんなイメージを持たれているですが、
驚いたことに、長崎日大高時代に相手選手に飛びかかって喧嘩をし、
レッドカードをもらったことが2度もあったそうです。
その理由についてですが、味方の選手が(ラフプレーで)やられたからだと言うことで、
仲間を助けるためにとった行動だったようですね。
当時住んでいた長崎市の深堀地区は共同体意識が強い土地柄で、
困っている仲間がいれば理屈抜きの行動する気質は、この地域で育まれたのかもしれませんね。
森保一の現役時代の経歴は?若い頃はレッドカード何度も?まとめ
今回は、サッカー日本代表の森保一監督の現役時代の経歴や
若い頃はレッドカード何度もについてまとめてみました。
森保一の現役時代の若い頃は、見た目と違って意外にも相手選手に
飛びかかって喧嘩するほどの熱血漢だったようですね。
監督として今回のワールド・カップでの活躍を期待したいと思います。