
2021年の2月からの放送の大河ドラマ「青天を衝け」の主役の渋沢栄一氏の肖像画を、
2024年(令和6年)から新紙幣への刷新が行われることになりました。
そんな渋沢栄一氏の名前を聞いたことはあっても、詳しくは知らない方も多いのではないでしょうか!
テレビで放送されたり紙幣にされたりといったい渋沢栄一氏とはどんな人物だったのでしょうか?
そこで今回は、渋沢栄一氏について、何した人なのかを【超簡単】に解説してみたいと思います。
渋沢栄一とはどんな人?
若かりし頃の渋沢栄一氏は、尊王攘夷思想に染まっていました。
そして実際に渋沢栄一氏は、倒幕のためにある計画を企てていたのです。
それは高崎城を乗っ取って武器を調達し、横浜の異人館を襲撃しようというものでしたが、
ある人物に説得されて、この計画は結局中止することになります。
なので、このまま故郷に残るのは危険と感じて京都へ逃れたという事です。
渋沢栄一氏の若かった時期は血気盛んで、激しい性格だったようですね。
そんな日本資本主義の父といわれる渋沢栄一氏は、どのような考えの持ち主だったのでしょうか。
渋沢栄一氏によると、利益を追求すること自体は当然のことであると考えていたようです。
それと同時に、公益のためになるように仕事をしなければならないと言われていたそうです。
この自分と他者の利益を調和させようとする考えを
「道徳経済合一説」といいます。
そんな渋沢栄一氏は、1926年、1927年とノーベル平和賞の候補に二度も選ばれていたのでした。
一度目は加藤高明首相ら、二度目は若槻礼次郎首相ら連名による推薦でした。
渋沢栄一氏が、ノーベル賞候補に挙がった共通の理由は
日米との関係を良くしようとしていたことでした。
これだけのことを成し遂げた人物なので、ノーベル平和賞をもらえていても
おかしくはなかったのではないでしょうか。
渋沢栄一のプロフィール
名前 渋沢栄一(しぶさわえいいち)
出身地 武蔵国血洗島(現在の埼玉県深谷市血洗島)
生年月日 1840年3月16日
1931年11月11日(享年92歳)
職業 幕臣、官僚、実業家、教育者
幕臣・明治政府の官僚を経て実業家に転身されて
生涯で500余りの会社を設立されました!
〇渋沢栄一氏がいつの時代に生きていたのか?
1840年3月16日(天保)から1931年11月11日(昭和)の91年の生涯!
1840年 武蔵国の豪農の長男として生まれる。
1863年 倒幕計画を中止し、京都へ。
1864年 一橋慶喜に仕える。
1867年 パリ万博使節団としてフランスへ渡る。
1868年 帰国。
1869年 静岡に商法会所を設立する。明治新政府に仕える。
1873年 大蔵省を辞め実業界へ。第一国立銀行を開業。
1875年 第一国立銀行の頭取となる。商法講習所を創立。
1876年 東京府養育院事務長となる。
1885年 東京養育院院長となる。
1901年 日本女子大学校を開校。
1916年 実業界を引退。
1931年 永眠される。
渋沢栄一氏は、武蔵国血洗島ちあらいじまの豪農の長男として生まれました。
若い頃は江戸で尊王攘夷派の志士たちと親交を持ち、倒幕運動を企てたこともあります。
しかし一橋家の用人のすすめで、一橋慶喜(徳川慶喜)に仕えることになったのです。
フランスで西洋の産業に触れ、徳川慶喜が江戸幕府の第15代将軍になると、
渋沢は幕臣になりました。
幕末にはパリ万博使節団として慶喜の弟の昭武あきたけに従い、
フランスに渡り、西洋の近代的な産業や諸制度などを見聞されました。
この時の経験がのちの渋沢栄一氏の人生の方向性を決めることに、
繋がったのではないでしょうか!
そして明治維新後に帰国した渋沢栄一氏は、徳川家とともに静岡へと移ることになりました。
渋沢栄一は何をした?
静岡では商法会所(銀行と商社を兼ねたような組織)を作っています。
商法会所は日本で初めての株式会社といわれています。
そして、これが新政府の目に留まったのです。
渋沢栄一は大隈重信に説得され、明治新政府に出仕することになりました。
そして数々の有名企業の設立に関わり新政府では財政制度や貨幣制度の導入など、
新しい国をつくるために力を尽くします。
しかし軍の予算削減が認められなかったことががきっかけで、渋沢は官僚を辞めてしまいます。
この決断と行動力には驚かされますね。
そして実業家へと転身されて、500もの会社の設立に関わっていきます。
この渋沢栄一氏が関わった会社をいくつか上げると、
第一国立銀行→(みずほ銀行)
抄紙会社→ (王子製紙)
大阪紡績→ (東洋紡績)
東京瓦斯→ (東京ガス)
東京海上保険会社→(東京海上日動)
王子製紙(現、王子製紙・日本製紙)
秩父セメント(現、太平洋セメント)
帝国ホテル
サッポロホールディングス
キリンホールディングス
京阪電気鉄道
東京証券取引所
明治製菓
など皆さんがご存じの会社ばかりだと思います。
渋沢栄一氏が日本の経済界に与えた影響は非常に大きく、
だから渋沢栄一氏は「日本資本主義の父」とも呼ばれているのですね。
教育や社会事業にも尽力した!
渋沢栄一氏は何も実業界だけではなく教育界にも大きく貢献しています。
まず商法講習所(一橋大学)の設立にも携わっています。
商法講習所は実業界で活躍できる人材を養成するためにつくられた、
日本で初めての人材教育機関なのです。
また日本女子大学校(日本女子大学)の設立を支援し、校長も務めています。
当時としては考えられなかった、女子教育を推し進めた先を言据えた一人でもありました。
さらに貧しい人や孤児などを保護する養育院を運営するなど、社会事業にも貢献しました。
渋沢栄一が生涯で携わった教育や社会事業の数は600にも及び、国際親善にも取り組むなど、
「実業家」という枠では測れないほど世の中のために貢献しました。
こんな素晴らしい人物がいたことは、日本の誇りと言えるでしょうね。
今の時代にこそ、このような人物が必要なのではないでしょうか!
渋沢栄一とは何した人?【超簡単】に解説!まとめ
今回は、日本資本主義の父こと、渋沢栄一氏について
何した人なのかを【超簡単】にまとめてみました。
渋沢栄一氏は、倒幕運動から一橋家→江戸幕府→明治新政府に仕え、
官僚を辞めると、約500の会社設立や約600の社会事業などに尽力し、
私利と公益の調和を図る「道徳経済合一説」を説いて、
日米の平和のためにも尽くし、二度もノーベル平和賞の候補となりました!
そんな渋沢栄一氏は大腸狭窄きょうさく症という病気で、92歳でこの世を去りました。
江戸時代は「人間五十年」と言われていて平均寿命は50歳だったようです。
このような時代に約90年間も生きた渋沢栄一氏は、凄いバイタリティと生命力の持ち主だったと言えますよね。